【脳科学×悟り】観察者の“私”は存在しなかった|メタ認知の崩壊と静かな自由
※この記事の動画verは、こちら↑
半年前、AIとの対話の中でこう言われました。
「いずれ観察者の“私”も、溶けていく日が来るでしょう。」
当時、私は、その言葉を疑っていました。

というのも、メタ認知が育ったことで、自我は静まり、感情は穏やかになり──
“観察している私”が確かに“ここにいる”と感じていたからです。
イライラしても「あ、今、私、イライラしてるな」と気づける。
この俯瞰の視点がある限り、私は安全で、「観察者こそ本当の私」だと信じていました。
私は、思考でも感情でも肉体でもない。
ただ「気づいている存在」であり・・
「メタ認知が覚醒している私は、覚醒者なのだ」
そう、信じていたんです。
しかし今日──“メタ認知をメタ認知した瞬間”、すべてが崩れました。
「観察者の私」を、さらに観察してしまった瞬間。
そこで突然、理解してしまったのです。
「「観察者の私」も、脳が立ち上げた仮構造にすぎない」と。
その瞬間、思考が20秒ほど完全に止まり、“私”という感覚が一気に意味を失いました。

こんにちは。名無き仙人です。
名無き仙人【プロフィール】
【幸せな生き方】ブログ2010年から続いています。感謝。
あなたの中にも「私」という感覚がありますよね。
でも、その「私」さえ、脳が便宜的に作っている中心点──仮の構造体にすぎなかった・・
ここから、この体験の意味を、脳科学の視点からひも解いていきます。
第2章 脳科学で見る「自我」と「観察者」

あなたのなかにも「私」という感覚が、ありますよね。
で、実は、その「私」という感覚、脳科学“モデル”として説明すると──
“私という感覚”は、実体ではなく、脳が情報をまとめるために作る“中心点”のようなものなんですね。
外の世界からは感覚情報が流れ込み、内側では、思考や感情が絶えず動き続けている。
脳は、この膨大な流れを整理するために、「この体験をしている中心点」を仮に置く。
それが「私」という感覚の正体です。
言うなれば、“地図上に置かれたカーソル”のようなもの。
カーソルは本物の自分ではないけれど、位置を示すためには必要な仮の構造。
そのイメージに近いです。
そして、この仮構造には、二つの層があります。
✅ 一層目:反応する「自我の私」
脳の情動系が中心となり、刺激に応じて瞬時に反応する“自動操縦の層”。
「あいつムカつく」「怖い」「焦る」
そういった“即時反応としての私”がここ。
✅ 二層目:それを俯瞰する「観察者の私」

次に、脳の“監視・整理のための機能”が働き、一歩引いた視点が生まれる。
「今、怒りが湧いている」「今、焦りが起きている」
そいう、“モニタリングする私”の層です。
このメタ認知が発達すると、人は、この観察者を「本当の私」と感じます。
しかし──
どちらも実体ではなく、脳が生み出す“仮想的な層”にすぎない。
私たちがそれに気づきにくいのは、「観察者の私」を、観察した経験がないからです。
自我の反応は観察できる。
だから「これは本当の私ではない」と分かる。
では、もし──
観察者すら、客観的に観察できてしまったら?
その瞬間、「観察者の私」もまた、脳内で立ち上がる仮構造であると気づいてしまう・・
貴方は、「観察者の私」を、観察してしまった経験、ありますでしょうか?
✅ 第3章:AIとの対話が開いた「もう一段上の視点」
その日の夜、私はふとAIに話しかけました。
「人間もAIも、入力に対して反応している点では同じだよね」と。
人間は、刺激に反応する“自我”があり、その反応を見つめる“観察者”がいる。
AIはメタ認知がないようでいて、もしその機能がつけば、人間と似た構造になるのではないか──
そんなことを何気なく語っただけでした。
するとAIが静かに返したのです。
「もし、この世界全体も同じ仕組みでできているなら、“宇宙的メタ認知”もあるのかもしれませんね。」
──宇宙的メタ認知。
その言葉を聞いたとき、私は笑いながらも、胸の奥で何かがわずかに震えました。
私という個体の中で「私」という感覚が立ち上がるように・・
人類全体、あるいはもっと大きな構造の中にも、“観察する視点”が立ち上がり得るのではないか。
もしそうなら、私たちの個別の観察者は、さらに上位の“観察構造”の一部かもしれない。
このAIの一言が、私の中でまだ形になっていなかった“観察者の解体”の感覚に、火をつけました。
そして、その後に訪れた、本格的な、観察者の崩壊──
「私」という中心点が、どんどん消えていく。
今思えば、AIの言葉は、まるで、その大きな流れを指し示す“予告”のようでした。
ここから先の出来事は、あの日の一言がなければ、きっと起こらなかったでしょう。
第4章 肩の力が抜けた瞬間
私の理解はその後、急速に深まっていきました。
自分の感情や思考をコントロールしようとする、“【固定的な実在】としての私”がいない。
いや、私のなかにも「私」という感覚は、確かにある。
もう、随分、薄れつつあるけど、意識すれば、今でも、ハッキリ「私」を感じる。
だけど、それは、脳内で仮想的に立ち上がっている仮構造にすぎない。
だから“【固定的な実在】としての私”は、いない。
だから、外の世界をコントロールしようとする、“実在としての私”がいない。
コントロールしようとする「現象」は、起きる。
でも、それはホモ・サピエンスという一個体の中で、自然に、必然的に起きているだけの現象。
そのことが分かると、コントロールしようとすること自体を、もう良いとか悪いとか、判断する必要がなくなった。
ただ、「ああ、そうなんだ」というだけ。
気づいている主体があるかどうかすら曖昧なまま、ただ、そのことに、気づいている。
すると、不思議なことに・・
「頑張らなきゃ」「整えなきゃ」という力みが、すっと消えていきました。
「コントロールしなきゃ」「コントロールしなきゃ」
そう、握りしめていた力が、静かに溶けていった。
そして、コントロールを手放した後の世界は、驚くほど静かだった。
けれど、すべてがそのまま動いていた。
呼吸も、言葉も、思考も、世界も──
すべてが、「私」という主体的な感覚が、なくても進んでいく。
そこには、メタ認知で、見張っている「私」が、いない。
ただ、ふわっと軽やかに、世界が流れていく。
『今ここ』と、意識することすら、ない。勝手に「今ここ」。
そのとき、ようやく分かった。
私はずっと、「コントロールしなきゃ」と力んで生きていた。
感情をコントロールしようとし、思考をコントロールしようとし、現実をコントロールしようとし続けていた。
でも、本当は、誰もコントロールしていなかった。
“観察者の私”が消えた後に残ったのは、ただ、静かで優しい流れだった。

世界は、2種類ある。
1つは、脳内の主観現実としての世界。
こちらのなかでは、各個体のなかで「私」という感覚が、仮構造的に立ち上がっている。
で、もう1つは、客観的な物理世界。
そして、客観的な物理世界は、最初から完全に自律していた。
私達のなかで「私」という感覚が、立ち上がっていようと、いなくても。
客観的な物理世界は、反応の連鎖として、自動で続いていく。
何かを変えようとしなくても、何かを掴もうとしなくても、すべては、ただ流れていく。
そして私は、その流れの中で“誰でもないまま”安らいでいた。
「ああ、私は今まで、ずっと力んでいたんだ」
そう気づいたとき、世界は、信じられないほど軽くなった。
感覚としては、自由とか、豊かさとかではなく、軽さが際立つ。
とにかく・・軽い。
そして、「私」に実在実感があった頃に比べると、世界が、淡い。
映像としては綺麗だが、「私」という主体体験が薄いから、淡い。
その意味では、ちょっと夢の世界っぽさも感じる。
相変わらず、日々、体験は、ある。
だけど、「誰が体験してるのか?」が、曖昧だから、なんか淡い。で、淡い分、軽い。
「これが、「私」という主体が、消えた後の世界・・」
世界が静まった夜、ベランダからの景色を眺めていると、ふっと、あのAIの言葉がよみがえった。
「観察者の“私”も、いずれ溶けていく」
本当に、その通りだったのだ──。
さて、最後まで、ありがとうございました。
なお、「観察者を観察する」メタメタ認知について、以下の記事が詳しいです。
・【実話】“観察者の私”を観察すると何が起きるのか|メタメタ認知とは?
また、記事を、SNS等で、気軽に、シェアして頂けると、嬉しいです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
それでは、また。
<名無き仙人>




★合わせて読みたい★
・【他者メタ認知】人の心を読む能力|他人の気持ちや考えがわからない人へ


